Chapter. 8

The Cherry Orchard
さくらの園 10





 
   

「……あとは明日の朝からで問題ないよね」
下校途中。
忘れたことはなかったかと、もう一度心の中でチェックする。
帰る前にコノエやみんなと確認したから漏れはないとわかっているんだけど。
慣れないことをやってるせいか、不安な気持ちを誤魔化そうとして、なにか忘れてはいないかと考えてしまう。

「うん。やっぱり大丈夫」
指折り数えて思いつく限りのことが滞り無く済んでいることに安堵する。

いよいよ明日が体育祭本番。
天気予報では晴れのち曇り、降水確率も0%と天候にも恵まれそうだ。
あとは自身の体調を万全にして望むために、今夜は早めに休みたいところ、なんだけど……。



「ただいまー」
玄関にずらりと並ぶ靴の数。
そして、ドア越しの玄関先まで聞こえてくる騒がしさ。
すでに『出来上がっている』であろうことが手に取るように伝わってくる。

真吾とメグは……と考えて靴を探す。
うん。もう来てるみたいだ。
あまり時間はかからなかったとはいえ、生徒会で最終打ち合わせしてたから俺が最後なのかもしれない。

「にゃ」と耳に届いた鳴き声に顔を上げると、チェリルが階段のなかばに佇んでいた。
いつものように出迎えに来たのに、俺が気付かなかったから呼んだんだろうか。


チェリルはあまり鳴かない猫だと思う。
もちろん、まったく鳴かないってことはないんだけど、必要最低限しか鳴かないよなと思う。
そもそもチェリルがにゃーにゃーと鳴き続けているのを聞いたことがない。
お腹が空いた時も、ひと声鳴いて、あとはゴスゴスと頭を押しつけてくるだけだし、名前を呼べば返事するけど、視線が合っているときは瞬きで済ませたり。
チェリルももう四歳くらいだから落ち着いたのかもしれないけど、子猫の時からだからきっと性格なんだろう。


「ごめんごめん。今日は騒がしくて足音が聞こえなかったんだ。ほら、おいで?」
靴を脱ぎチェリルに近づいて手を伸ばすと、ゴロゴロと喉を鳴らして擦り寄ってくる。
頭と背中を撫で、首すじをくすぐるように掻いていると、ぐいぐいと額を押しつけながら寝転がる。

「おっと。危ないって」
予想通りに階段から落ちそうになるところを掬い上げて抱きかかえる。
その時、気持ちよさそうに目を閉じるチェリルの耳がピクッと動いた。

かと思うと、突然、猫キックで腕の中から抜け出し、あっという間に二階に駆け上がって行った。
なんだろうかと思っていると、リビングのドアがわずかに開き、その隙間をすり抜けるようにして茶色の塊が現れる。

「ジョン?」
「わうっ」
カツカツとフローリングに爪音をたてながら目の前まで来てちょこんと座る。
ちょこんと、というには大きすぎるかな?

「ただいまジョン。もうみんな来てるの?」
そう問いかけて頭を撫でると、嬉しそうに眼を細めて尻尾を大きく振る姿が可愛い。

「ジョン〜? どうしたのー?」
続いてリビングから姿を現した女性と視線が交わる。
その女性は一瞬だけ驚いた表情を見せ、しかしすぐに笑顔で話しかけてきた。

「おかえりなさい。『さくら』ちゃん」
真吾のお姉さん、綾橋壬琴(あやはしみこと)さんが嬉しそうににっこりと笑う。

「あ……ただいま。お久しぶりです壬琴さん」
壬琴さんが笑顔で近づいてくる。
暖かい笑顔が懐かしくて、一瞬だけ昔に戻ったかのような感覚に囚われる。

「確か結婚式以来だから、三年……ううん、四年ぶりかしら?」
記憶よりも低い位置にある壬琴さんの愛らしい笑顔をまじまじと見つめる。
最後の記憶では壬琴さんと同じくらいだったはずだけど、今では頭ひとつ分くらい身長差がある。
こんなに小さかったっけ? と思っていると、

「背伸びたねー。真吾くんと同じくらい?」
そう言って俺の頭の上に手を置いて自分の背丈との差を図る。

「いや、真吾ほどはないです。でも、四年……も経ってるんですね。確かに、こんなになってからは初めてだし」
「ふんふん。へぇ〜。ほほぉ〜」
「な、なんです?」
前から横から眺める壬琴さん。
ま、まぁその理由は聞くまでもないんだけど。

「すごいすごい。さっきテレビ見せてもらってなかったら、一樹くんだって絶対気付かないよ。確かに昔から可愛かったけど、そっかぁ。成長するとこんな美人さんになるんだねー。お姉さん、ちょっと感動かも」
拳を握って、ジーンと感傷に浸る壬琴さん。

驚かれるのは慣れてるけど、感動までされると妙に居心地が悪い。
好きでこうなったわけじゃないだけに、素直に喜べないからだろうか。

……いや、『変化』について言及されることが問題なんだと思う。
単に見た目の感想じゃなくて、昔の自分と比較されていることがわかる故の感情なんだろう。
負い目……みたいなものを刺激されているのかもしれない。
その内容が褒めているにしろ違うにしろ心境的に居たたまれなくて逃げ出したくなる。

「あ……ありがとうございます。でも、壬琴さんも変わらず綺麗ですよね」
そんな葛藤を押しつぶして笑顔を作る。

「えぇー? やだなぁ。お母さん業が大変で最近なにもしてないのよ? 今もほとんどすっぴんだし」
頬を両手で挟んで照れる壬琴さん。

複雑な心境をねじ伏せながらも、その姿を見て可愛いなぁと思ってしまう。
以前はあまりに大人と子どもすぎて、壬琴さんが俺とのやりとりで照れることなんてなかったからかな。

「そうかなぁ? 本当に綺麗だと思いますよ」
そう返すと、壬琴さんは驚いたように目をパチクリさせる。

「まぁまぁまぁ〜。あのクールな一樹くんがお世辞を言うなんてねー。そうよねーもう高校生だものねー」
「いやいや、お世辞じゃないですって。だって、前からずっとそう思ってたから」
「そんな返しがサラっと出てくることが成長の証みたいに感じちゃうのよ」
「う〜ん、それは成長と言うより立場の変化かな。男のままだったら素直に言えなかったと思うし」

女になったことで、まぁ、良かったんじゃないかと思うことのひとつがこれだ。
他人を……特に女性を褒めることに抵抗がなくなった。
同性の立場だと褒めても下心がどうとか変に思われない。
それよりなにより、処世術として必要不可欠だと下宿先で叩き……いや教え込まれた。
その甲斐あって今ではそれほど抵抗無く褒めることができる。

「ふぅん? ねぇさくらちゃん。女の子になった今も、女の子にモテるでしょ?」
「え? ……えーと、どうですかねー」
女の子になった今もってなんだ『も』って。男だった時にモテてたみたいじゃないか。
それは別にしても、今はどうなんだろう。
そういえば今年のバレンタインデーにやたらとチョコレート貰ったけど……

「あぁやっぱりそうなんだ」
否定したはずなのに訳知り顔で頷く壬琴さん。

「なにが、やっぱりなんです?」
「だって返事に間があったじゃないの。心当たりあるんでしょ?」
「心当たりと言うか……自分じゃ客観的に判断できないから、なんとも言いにくくて」
自分はモテます。なんて真顔で言う奴はそもそも信用に値しないと思うんだけど。
それはそれとして、女として同性にモテるというのはどうなんだ?
それに、モテるモテないの線引きはどこなんだ。

「なるほどねー。でも、私の見立てじゃモテそうだと思うよ? だって、やっぱり中身は男の子だなって思うもの」
「……え?」
ガツンとハンマーで殴られたような衝撃を受ける。
不本意だといえ、初見でバレない程度には女性としての言動が出来てると思ってたのに、あっさりと壬琴さんに指摘されたということは、どこか不自然な部分があるってことじゃないか?

「……あぁ違うのよ。ごめんなさい。そうよね、どうしても気にしちゃうよね」
少し慌てた壬琴さんが手をぎゅっと握ってくる。

「もう少し言葉を選ばないといけなかったよね。今のは……そうね、気質というか性格って言った方がいいかな」
「性格……ですか?」
「そう。ほら、気が弱い男の子を『女々しい』って言ったりするじゃない。女の子なら『男勝り』って言葉もあるよね。さっき言ったのもそんなニュアンスなの。それに……」
言葉途中で壬琴さんがじっと見つめてくる。
体温が低いのか握られた手がひんやりしていて気持ちいい。
それに……ちょっと顔が近いんですけど……

「心配いらないんじゃないかな。こう言うと嫌がるかもだけど、さくらちゃん、どこから見ても女の子だよ?」
「うぅ」
「あ。やっぱり。これはこれで嫌だと思っちゃうんだ? でも、それも仕方ないか。望んでそうなったわけじゃないんだものね」
壬琴さんは、しんみりと微笑んで握った手に力を込めた。

しかし……思考がことごとく読まれてる気がする。

「さ、立ち話もなんだし、みんな揃ってるから入って入って」
壬琴さんに手を引かれるままにリビングへと足を踏み入れる。
律儀に横で大人しく座っていたジョンもぴったりと寄り添って付いてくる。

「お! 主賓のお姫様のご到着だ」
「いよっ! 待ってました」
メグのお父さんである武弘おじさんと大吾おじさんのノリが妙にいい、。
にわかにまばらな拍手もわき起こる。
赤ら顔を見なくとも予想通りすでに出来上がっているようだ。

しかし、高校生をつかまえてお姫様とか王子様とかどうなんだ?

さっと見渡すと、他のみんなは全員揃っていた。
波綺、赤坂、羽鳥家の夫婦に、真吾、メグ、瑞穂、そして壬琴さんと真琴くん、そしてジョン。
十二人プラス一匹が揃うと、リビングと隣の和室を使ってもすし詰め状態だ。

お酒の関係か、それぞれの両親がリビング側に、真吾たちは和室側に分かれて座っている。
テーブルには出前を取ったらしい握り寿司とオードブルの盛り合わせ。
そして、ビールやジュースが所狭しと並んでいる。
まだほとんど手つかずなところを見ると始まったばかりなのだろう。

……とすると、食事が揃う前から酒盛りは始まっていたってことか。

「なーにしてんだい。ほら、こっち来て座って座って」
恵子
おばさんが手を引いて自分の隣に座らせる。
ここは元々壬琴さんの席だったらしく、俺の隣に座った壬琴さんがテキパキと自分が使っていた皿と俺の皿とを入れ替えてくれる。

「いままで見てたのよー、例のテレビ。もう、一躍有名人だねぇ」
「は、はぁ」
恵子おばさんは、あははと笑ってバンバンと背中を叩く。
相変わらず豪快な人だ。

「録画したって聞いて、智くんの親バカがまた始まったかと思ってたんだけど、いやはや。これは録画せずにはいられないな。わははは」
離れた席では大吾おじさんが父さんの背中を叩いている。
父さんと視線をあわせて、どちらともなく苦笑いを交わしあう。

「ぜひとも、しばらくウチのと交換して欲しいくらいだよ。なぁ母さん」
「そうだねぇ。ねぇ美咲さん。一週間くらいウチの恵と交換してみない?」
メグは自分の両親が言い出した突飛な提案に『あのねぇ』と苦い声を発した。

「もう。モノじゃないんだから、娘の貸し借りなんて気軽に持ちかけないでよね」
「あははは。まぁいいじゃないか」
「よくないって言ってるんだけど」
ご機嫌な羽鳥夫婦の会話に、メグはため息をついて真琴くんに向き直る。

真琴くんはメグと瑞穂に挟まれて世話を焼かれていた。
その真琴くんと目が合う。
じぃーっと見つめてくるので微笑んで手を振り返すと、ぷいっと視線を料理に落とす。
すぐにチラっとこちらに視線を向けたけど、俺が見ているとわかると、また料理に視線を戻した。

うーん、人見知りする子なんだろうか。
男の子かぁ。目元とか壬琴さんに似てるかな。もう随分としっかりした顔つきをしている。
たしか、もう二歳になるんだったか。
真吾に聞いた話では、もう喋れるようになったってことだったけど。

そんなことを考えながら正面に視線を向けると、酔っぱらった大人たちと、真琴くんの世話をするメグたちに挟まれて所在なさげな真吾と目が合った。

お酒を飲んで盛り上がる大人たちに混ざれないし、かと言ってメグたちと真琴くんの世話をするわけにもいかない。
こんな時、以前は男どうしで適当に話してた気がするけど、今は俺がこんなだし、同世代で男は真吾ひとり……いや、今は真琴くんがいるにはいるけど、さすがに世代が違うしなぁ。
間違いなく肩身は狭くなっただろう。

「遅かったね」
その視線を受けた真吾に思ったことが伝わったのか、苦笑いしながら話しかけてくる。

「うん。生徒会で最後の確認しててね。そういう真吾は早かったみたいだね。どう? 高総体の準備は」
「調整は終わってるから問題ないよ。今日はミーティングだけだったから」
「そっか。もう調整終わってるんだ。それもそうか。体育祭のすぐ後だし」

生徒会選挙が終わって、二週間足らずで体育祭。
新体制になってから体育祭の日程を変更する考えがなかったから、今年はそのまま六月の第一土曜日に実施される。
そして困ったことに、その翌日からは高総体が始まるという運動部にとっては過密スケジュールだ。

だから来年から体育祭の時期をずらそうって話が生徒会であがっていた。
秋に戻すか、それとも少し早めるか。梅雨は避けたいし夏場は熱射病が心配。秋はなにかと行事が多く、冬は体が固くて今度は怪我が心配。と、いうことを考慮して今の時期になったのはわかるけど。
どちらにしろ、この余裕がない日程は是正すべき、というところまでは決まっている。

「ん?」
腿の上に重みを感じて視線を下ろすと、ジョンが寄り添うように伏せて俺の脚に顎を乗せ上目遣いで見つめていた。

「ごめんごめん。無視してたわけじゃないんだよ?」
くぅ〜んと甘えた声で鳴くジョンの頭から背中にかけて撫でてあげる。
ふさふさした艶やかな毛並みは、とても手触りがいい。

でも、これもある種の膝枕って言うんだろうか。と考えながら、チェリルもよく乗ってくるよなぁと思った時にひらめいた。そうか。ジョンがいるからチェリルは二階に避難してるのか。

「さくらちゃん、ジョンに懐かれてるねー」
同じく、間に割り込んできたジョンの背を撫でてくすくすと笑う壬琴さん。
その声に反応してジョンは尻尾をパタパタと振るが、撫でられるまま動こうとはしない。

「ジョンったら、すっかりさくらちゃん贔屓なのよね」
真吾の隣に座っている琴美さんのその言葉に、大吾おじさんが大きく頷いて話を続ける。

「子犬のころから性格的に人見知りする子だったんだが、どうもさくらちゃんは別格扱いなんだよな。ジョン、来い! ほら、こっちおいで」
大吾おじさんの声に、すっくと上半身を起こしたジョンは『わぅ』っと小さく吠えるけど、そのまま元の位置に頭を戻して目を閉じる。

「な。さくらちゃんの方が優先順位が高いんだよなぁ。飼い主は俺のはずなんだが」
しみじみと語る大吾おじさんの説明に、ほほぉっと感心するみんなの視線が集まった。

「う〜ん、特になにもしてないんですけどね」
懐いてくれるのは嬉しいけど、自分でもその理由がわからない。

「家でも、さくらちゃんが遊びに来ている間はべったりなのよ。ジョンはさくらちゃんが大好きなのよね〜」
と言う琴美さんの声には尻尾を振って返事をする。

さっきから自分の名前が呼ばれるたびに尻尾を振ったり、耳がピクッと動いたりするけど、俺の膝に乗せた頭はほとんど動かさない。これが猫なら喉をゴロゴロと鳴らしてそうだ。

「はい。さくらちゃん。お腹空いてるでしょ」
壬琴さんが差し出すお皿を受け取る。
お皿には料理が綺麗に盛りつけられていた。

「ありがとうございます」
「ジョンが懐くのもわかる気がするなー。さくらちゃん、前よりずっと頼れる雰囲気がするもの」
テーブルに肘をついた手に顎を乗せた壬琴さんが首を傾げて覗き込んでくる。
記憶の中よりも、ぐっと大人びたその表情に少しだけ鼓動が高鳴った。

「それは……どうなんでしょうね。自分じゃあまり変わってない気もしますけど」

そりゃ容姿は、これでもかってくらい変わったかもしれない。
でも中身も成長したのかと問われると、はなはだ疑問が残る。

女としての覚悟みたいなものは少しずつ出来てきているとは思う。
でも男女差とかじゃなくて、人間的にどうかって尺度で考えると自信がない。
ちょっぴり自暴自棄なこともあったから、感覚的には二歩下がって三歩進んだ程度じゃないかと。

「もう。少しは、お姉さんの言うことも信用してよね」
ちょっぴりむくれた壬琴さんが人差し指で頬をつついてくる。

「いや、別に壬琴さんを信用してないってわけじゃ……」
言われるほど、自分を過大評価できないってだけで。

「うーん、謙虚さは美徳だけど、さくらちゃんはもっと自信持っていいと思うよ? 今日こうして話してて感じたことだけど、言葉遣いも綺麗になってるじゃない。受け答えもしっかりしてるし。それに一年生で生徒会長を立派にこなしてるんだから」

そうは言ってくれるけど、壬琴さんがなにを根拠としているのかわからない。
実際に自信持てるほどに出来てはいないんだよなぁ。
大体、褒めてもらえてるような成長ができてたら、学校で噂や陰口を叩かれたりはしないと思う。
そう考えている最中に視界の端にテレビが見えた。
そうか。あの特集を見ただけなら、そんな風に見えるのかな。

「あぁ、さっき見たテレビのことだけで言ってるんじゃないのよ? さくらちゃんが帰ってくる前に、真ちゃんやメグちゃんにも聞いたの。生徒会で体育祭の準備を指揮しながら、上級生の先輩たちも取りまとめてたって」
ちょっとだけテレビに向けた視線から察したのか、なにも言ってないのに考えを読んだかのように話す壬琴さん。

「……顔に出てました?」
ポーカーフェイスには自信があったんだけど、さっきから考えがダダ漏れしてるとしか思えない。

「ううん。ただ、納得してないのは読み取れたからね。ふふ。あなたたち四人のことは小さいころから知ってるからね。考えてることは漠然とだけれどわかる気がするのよ? って、そうそう。遅くなっちゃったけど、これ高校の入学祝い。おめでとうさくらちゃん」
そう言って、バッグの中から取りだしたラッピングされた細長い箱を手渡してくれる。

「ありがとうございます。すみません、気を使わせちゃって」
「いいのよこれくらい。ねぇ開けてみて?」
予想以上に軽かった箱を開けて中身を取り出すと、レースで縁取られた黒い布が出てきた。

「これは……」
「カチュームっていうのよ。ゴムでできたカチューシャって言えばわかりやすいかな?」
カチューシャ……? 
そう聞いて、なぜか軍用トラックが思い浮かぶのはなぜだ?

「そのままでも悪くないんだけど、女の子はちょっとしたアクセサリーで印象がかなり変わるものよ。テレビや今の姿を見ての予想なんだけど、さくらちゃんって女の子としてのお洒落については、ちょっと疎いでしょ?」
「そうそう。お姉ちゃん私服も男物っぽいのが多いよね。いつも私が言ってるのに」
メグとふたりで真琴くんをあやしていた瑞穂が余計な口を挟む。

「だから、俺がなにを着ようとどうでもいいだろ」
「どうでもよくないよ〜。お姉ちゃん磨けばもっと光るんだから」
「そんな無理に光らせなくていいんだって」
服装なんて、おかしくなければいい。
そもそも女として着飾ることの敷居は高すぎる。
ようやく制服もなんとか気にせずに過ごせるようになってきたけど、私服が女装……いや、女物なんてまだまだ。

「ふふ。瑞穂ちゃんと話すときは昔の口調のままなのね。今のやり取りを見て、ようやく頭の中の一樹くんと一致したわ」
壬琴さんはそう言ってニコニコと微笑みながら後ろに回ると『それじゃ付けてみましょうねー』と、首筋のところで髪をひとまとめに掴んだ。
少しくすぐったくて肩を竦める。その動きが気になったのかジョンが起きあがって鼻先で頬をつついてきた。

「今は手ぐしで申しわけないけど……ほら。どうかな?」
ジョンを押さえている間に装着は終わったらしい。
両耳にさわさわとした布の感触。つまんで視界に引っ張ると黒のサテン生地を白のレースで縁取ったリボンが見えた。
それにしても、どうと訊かれても見えないから答えようがない。

「お姉ちゃん可愛い〜!」
第一声は瑞穂だった。だから可愛いとか言うな。

「ホント、さくらちゃん似合ってるじゃないの」
「ほほぉ。リボンひとつででこんなにも変わるものなんだなぁ」
「あなた。リボンじゃなくてカチュームよ」
「カメラ、カメラ……」

今日はパンダ扱いだと覚悟してたので飛び交う言葉を黙殺する。
なぜか父さんが撮影してるみたいだけど……きっと気にしたら負けだ。

リボンが似合うとか、セーラー服が似合うとか。
褒められているんだと頭では理解しているけど、なにかが引っかかるのか素直に納得できない。

モヤモヤとしたものが胸の奥でうねる。

「はい手鏡。これで確かめてみて」
壬琴さんが差し出す鏡を受け取って覗き込む。

……ん、ま、まぁ思ったより似合ってるんじゃないだろうか。
よく見ようと頭を振ると、ひらひらとリボンが揺れる。

「学校にも付けていけるようモノトーンを選んだんだけど、これは正解ね。母さんから聞いてた通り、あまり主張しすぎないアクセサリーの方がさくらちゃんの魅力を引き立たせるもの」
俺の肩に手を置いて鏡を覗き込んだ壬琴さんが鏡の中で視線を合わせて満足げに頷く。

「ね、言った通りでしょう? さっき瑞穂ちゃんが磨けば光ると言ってたけど、磨く前からこのレベルですもの。ティーンズメイク用品のCMに起用してもおかしくないと思うのよね」
と琴美さん。冗談なんかではなく本気そうなのが恐い。

「俺もその意見には同意だな。さくらくんは身長もあるし、モデルとして契約してもいいレベルじゃないか?」
化粧品メーカーに勤める赤坂家が不穏な会話を弾ませる。

モデルは……まぁ収入面で言えば悪くないんだけど、顔が表に出るのは避けたい。
限りなく致命傷になると思うから。
エステのアレも顔は出さないっていうからやっただけで。

「よし。それじゃ、みんなそろったから仕切り直そうか。では、改めまして」
大吾おじさんがビールジョッキを掲げると、各々ビールやジュースを注ぎなおしたグラスを手に取る。

「さくらちゃんの生徒会長就任! 並びに! テレビ出演を祝して! カンパーイ」
「かんぱーい」
グラス同士が触れあう音が部屋に響く。

「それでは、主賓のさくらちゃんからひと言どうぞ」
こういう席では、いつも司会進行役を努める大吾おじさんに指名されて、慌てて居住まいを正す。

えーと。という言葉を心の中だけでつぶやいた。
選挙演説の時に、話すときは、あーとかえーとか意味のない接頭語を使うなってコノエから言われたのを思い出す。

「みなさん、ありがとうございます。いろいろあって……本当にいろいろな出来事があったんだけど、今こうしてみなさんに祝ってもらえることを、とても嬉しく思います」
さっきまでの騒がしさから一転して、みんなが静かに注目している。

真剣な、でも暖かい視線に、背中を支えられているような気持ちになる。
……うん。家族同然のみんなになら、そこまで取り繕わなくていいかな。

「でも……正直に言うと、今の自分については、はなはだ不本意です」
予想と違ったのか、
驚きに変わるみんなの表情が可笑しい。

「できれば男のままでいたかったし、今でも戻れるものならぜひとも戻りたいと思ってます。この気持ちは、きっと一生変わらないんじゃないかな……と思います。生徒会長になった経緯も実は胸を張って人に言えるような理由じゃありません。会長職の立場も正直に言って荷が重いです。でも……」
言葉を切って、ひとりひとりの顔を見ていく。
父さんは傍目に見ても心配そうだし、大吾おじさんたちは真剣な顔をしている。
ひとり母さんだけが、嬉しそうな笑顔で見つめていた。その母さんに微笑み返す。

「でも、生徒会長に選ばれたことも事実で、今の、女になった自分自身も紛れもない現実です。中学二年の夏に手術を受けてから一年半くらいの間は、その現実が受け入れらなかった。頭の中全部を後ろ向きな考えで塗りつぶして、両親を筆頭に、みなさんや多くの人に迷惑をかけたと思います。この場を借りて謝らせてください。ごめんなさい。……そして、立ち直れるまで支えてくれてありがとう。本当に感謝してます」
父さんと母さんに、そして、みんなに頭を下げる。

「世間的には、以前、自分が男だったことは秘密にしてます。ここにいるみなさんを除けば、事情を知る人はそう多くないと思います。でも、病気だったんだし隠すことはないんじゃないか。そう思うかもしれません。確かに、自分もみなさんに再会してから、以前通りに振る舞ってくれる姿を見ると、そう思わなくもありませんでした。でも、性別が変わったということは、大人ではなく子どもにとっては、揶揄し差別する立派な理由になるんです。それを入院した先の病院で身をもって実感しました」
水を打ったように静まりかえる状況を見て少し後悔する。
やっぱり、こんなことを言うべきじゃなかったんじゃないかと。

でも、自分のことを知っててくれるみんなだからこそ、自分の想いをわかって欲しいとも思う。

「それから、なるべく他人と関わらないように生きていこう。一年半くらい前まで、本気でそう思ってました。でも、転校先の中学で私の事情を知った上で友人になってくれた子がふたり……今では三人かな。その子たちが友達になってくれて考えが少し変わってきて……高校でもちょっといろいろあったんだけど、クラスメイトや先輩たちに支えられて考えが少しずつ変わってきています。もちろん、真吾とメグの存在もあってのことなんだけど」
急に名前を出されたからか、ふたりが驚いている。

「そんな、みんなへの感謝を行動に移したくて、楽しい学校生活を送ってもらいたくて生徒会長としてがんばろうと思います。まだまだ不慣れで足取りすらおぼつかないんですが、みなさんの期待に応えられるよう努力します。その答えとして、生徒会長として活動するこの一年間を見ていてください。最後になりましたが、今日は忙しい中、集まって祝ってもらって本当にありがとうございます。明日の体育祭も楽しんでもらえるよう、みんなで頑張りますのでよろしくお願いします」
最後に立ち上がって大きく頭を下げた。
下を向いた目の前にジョンの顔があって、頬に鼻先を押しつけてペロペロと舐めてくる。

それがくすぐったくて、しゃがんでジョンに抱きつく。
くはー慣れない。顔が火照ってくるのがわかる。
知った顔ばかりの中で話す方が全校生徒相手に話すより気恥ずかしいのは俺だけか?
話した内容が内容だからだろうか。

そんな多少の後悔にさいなまれていると
、みんなの拍手が少しずつ重なって大きくなっていく。

「さくらちゃん、すごいわー」
「感動した! こんなにしっかりとした考えを言葉にできるのは、大人でもなかなかいないもんだ」
「さすがは生徒会長さんね。ぐぅの音も出ないほど会長なんだって納得したわ」
「がんばれよ。おじさん、いつでも力になるからな」
「お姉ちゃん、いつもと別人みたーい」
「よし。智くん、さっきの録画したやつ、もう一回観よう。今の話を聞いたらまた観たくなった」

あー……。
会長としての経験が生きたのか、おおむね評価はまずまずだったのかな。
大変だったんだねぇとか、がんばったなという激励の雨に背中がむず痒くなってくる。

そんな空気の中で、例の特集が再生されたの機に「着替えてきます」と席を立った。
というか、今のこの空気の中であれが再生されると思うと居たたまれなさすぎる。
その考えに背中を押されて、逃げるように自分の部屋へ戻ったのだった。

 
   




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